語りえぬものを語る 真理の相対主義は可能か

  • 「絶対的なものは存在しない」と絶対的な主張をしているのが、相対主義者であった
  • 確かに「美」は人それぞれで絶対的ではない一方で、「真理」は定義からして人それぞれあってはいけないように思われる
  • 加えて、「美」と「ビューティフル」についても、指している対象は微妙に異なるように思われる
  • 「概念によって絶対性は異なるのではないか」と、「翻訳前後の文章では違う意味を持ってしまっているのではないか」という問い

そもそも「完全絶対主義者」「完全相対主義者」のような、極端なことを考えているのが問題の根源に思われる。性悪説性善説にしても、人と環境に依るだろう、程度の答えが現実を上手く表現しているのではないか。

だから、「概念によって絶対性は異なる」だろうし、「翻訳前後の文章で違う意味を持って」しまうこともあるだろうし、でもそれで? と言いたくなる。

著者からすると、そんな考えは「分かってないな」となるのだろう。分かっていないのはどこか。

絶対主義者は定義からしてそんな曖昧な態度を許しはしないし、相対主義者は定義からして絶対主義者を認めることはできない(だから相対主義を貫き切れない)のだーーこれこそが問題ということになるのだろうか。

それでもやはり、じゃあ「絶対相対主義者」のような日和見的な態度を考えれば良いだけじゃないのですかね、と言いたくなる。